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文化遺産の紹介

景福宮

  • 景福宫 地图
1. 光化門と宮廷の石垣
光化門と宮廷の石垣
光化門と宮廷の石垣
光化門と宮廷の石垣

昔の栄華を思わせる4大門
景福宮を囲む石垣の長さは2,404mに達し、高さは平均5m、厚みは2m程度だ。石垣の四方には4つの大門を作り、1426年(世宗8年)に建春門(東)、光化門(南)、迎秋門(西)、神武門(北)と名付けた。これはそれぞれ春-夏-秋-冬と木-火-金-水を象徴し、真ん中に位置する勤政殿を中心に四方を取り囲んでおり、伝統的な五行説に由来した名称だ。景福宮の正門である光化門の両端の角には望桜である東十字閣と西十字閣を建てて、朝鮮の5大宮廷のうち、唯一、闕門形式を備えている。西十字閣は1920年代に撤去された。東十字閣は道路拡張によって石垣が内側に縮小され、道路の真ん中にぽつりと立つようになった。

2. 勤政殿一帯
勤政殿一帯
勤政殿一帯
勤政殿一帯

儀式・国家行事が行われた宮廷の中心
勤政殿は景福宮の最高殿閣である法殿(正殿)で、その名前は‘天下の事は勤勉であれば治まる’という意味を持っている。宮廷で最も荘厳な中心建物として王権を象徴し、王の即位式や文武百官との朝会、外国使節の接見など国家行事を行った所 だ。1926年に勤政門外側の領域は取り壊され、そこに朝鮮総督府庁舎が建てられた。2001年に興礼門と永済橋等を復元して元の姿に取り戻した。勤政殿は韓国の国宝第223号、勤政門は宝物第812号に指定されている。

3. 思政殿一帯
思政殿一帯

国政が行われた所
思政殿は王の公式的な執務室で、その名前には王が政治に臨む時、深く考えて正否を選り分けなければならないという意味が込められている。毎朝の報告と会議、国政セミナーにあたる行事などがここで開かれた。思政殿の左右にある万春殿と 千秋殿は、オンドル部屋を取り揃えて冬でも利用できた。万春殿は朝鮮戦争で焼失したものを1988年に復元した。思政殿の前の倉庫は王室の財物を保管する所として利用した。思政殿は宝物第1759号に指定されている。

4. 康寧殿と交泰殿
康寧殿と交泰殿

王室の生活が息づいている所
王と王妃が日常生活をする所を寝殿と言う。康寧殿は王の寝殿である。寿・富・康寧・攸好徳(徳を好み、喜んで行うこと)・考終命(寿命のとおりに生きて楽に死ぬこと)という五福の中で真ん中の三番目の福が‘康寧’である。王はここで読書と休息など、日常生活だけではなく臣下たちと政務を執ったりした。 交泰殿は創建当時ではなく1440年(世宗22年)に初めて建てられた。ここは王妃の寝殿で宮廷内の生活を総指揮した所だ。

5. 欽敬閣と含元殿
欽敬閣と含元殿

王室の必要によって内殿の近くに作った建物
欽敬閣は農業発展のために天体の運行を理解して時間を精緻に測定しようとした王の苦心と努力が込められている建物だ。世宗は1438年に欽敬閣建設を命じて、ここに玉漏機輪・仰釜日晷などの時間測定機器と天文観測装置である簡儀を作っ て設置した。交泰殿の近くに位置し、主に仏事を行った含元殿も世宗の時に建てられたと推定される。朝鮮王朝は儒教国家だが、世宗など多くの王と王妃が仏教に心酔していたという記録が実録に残っている。何回かの焼失を経て1888年(高宗25年)に復旧されたが、景福宮の他の内殿と同じく1917年の昌徳宮大火災以後、昌徳宮再 建のために取り壊された。現在の建物は1995年に復元したものだ。

6. 慈慶殿一帯
慈慶殿一帯
慈慶殿一帯
慈慶殿一帯
慈慶殿一帯
慈慶殿一帯

興宣大院君が捧げた大妃殿
憲宗(24代目の王)の母君である神貞王后は高宗(26代目の王)の即位に決定的な寄与をした人物だ。高宗の実父である興宣大院君は神貞王后の居所を宮廷内で最も華やかで細やかに作り、その恩に報いた。‘慈慶’という名前は正祖(22代目の王) が即位して母君である恵慶宮洪氏のために昌慶宮に慈慶堂を建てたことから始まった。王が母君に慶事があることを願うという意味である。二度の火災で焼失後、1888年に再建して景福宮寝殿のうち唯一残っている昔の建物だ。慈慶殿は宝物第809号に指定されている。 慈慶殿一帯は南向きの慈慶殿を中心に西北側に福安堂を、東側に清讌楼と協慶堂を連結した複合建物群だ。福安堂はオンドルを設置して冬期用の寝殿として、清燕楼は板の間を設置して夏期用の空間として使用した。西側の石塀は福や長生きを祈願する模様などで飾った。また、裏側の石塀には母君の長寿を祈る十長生煙突を設置した。

7. 東宮一帯
東宮一帯

浮び上がる太陽,王世子の居所
王世子は昇る太陽のように王位を継ぐ人であるため、内殿の東側に居所を配置して、これを東宮と呼んだ。西側の資善堂は王世子と世子嬪が暮らした内殿で、東側の丕顯閣は勉強をしながら政務も担当していた外殿に該当する。南側の春坊の跡には 王世子の教育を担当した侍講院が、桂坊の跡には儀典と警護を担当した翊衛司が、その周りには部属官庁があった。朝鮮初期には東宮が宮廷の外にあり、宮廷内に東宮殿として 資善堂を作り始めたのは1427年(世宗9年)だ。文禄の役の時に全焼して 1867年に再建される。日本が朝鮮物産共進会開催を控えて博覧会を開くという口 実で、1914年に東宮一帯を完全に撤去した。この建物は1999年に修復したものだ。

8. 咸和堂と緝敬堂
咸和堂と緝敬堂

後宮と宮女たちの空間
交泰殿の北側にあるアミ山の向こうには、興福殿一帯が位置していたが、この一帯は後宮と宮女たちのための後宮領域だ。寝殿として使われた幾多の殿閣と複雑な行閣は殆んど無くなり、現在は咸和堂と緝敬堂だけが残っている。これは、日本が朝 鮮総督府博物館を運営し、その事務室として使うために壊さなかったからだ。咸和堂と緝敬堂は廊下で繋がっており、高宗が乾清宮にとまる当時、ここで外国使臣を接見したという記録が残っている。

9. 香遠亭と乾淸宮
香遠亭と乾淸宮
香遠亭と乾淸宮

高宗のために建てた空間
咸和堂と緝敬堂の北側の後園領域には香遠池という四角い池が造成されており、その中に香遠亭がある。慶会楼が雄大壮厳で男性的なら香遠亭はこぢんまりして女性的な雰囲気を漂わせている。元々は北側の乾清宮につながる橋があったが、 朝鮮戦争の時に破壊され今のように南側においた。香遠亭(宝物第1761号)は世祖(7代目の王)の時に建てた翠露亭跡に乾清宮を建てる時に造成したもので、香遠亭の北側に乾清宮が位置している。高宗は1873年(高宗10年)に実父(興宣大院君)の政治的干渉から脱して親政体制を構築しながら、政治的自立の一環として乾清宮 を建てたそうだ。乾清宮は王妃の居所である坤寧閤、王の居所である長安堂、洋館である観文閣などから成り立ち、1895年に明成皇后が殺害された悲劇の場所でもある。1900年代の初期に取り払われた後、1939年にはここに美術館が建てられ、1945年独立以後(戦後)は民俗博物館として使用されていた。2007年に観文閣を除いた 殿閣を復元した。

10. 集玉斎一帯
集玉斎一帯
集玉斎一帯
集玉斎一帯
集玉斎一帯
集玉斎一帯

清風と朝鮮風の調和
1876年、景福宮に大火災が起こると高宗は昌徳宮に移り、1885年に再び景福宮に戻って主に乾清宮で過ごした。この時、昌徳宮の咸寧殿の別堂であった集玉斎と協吉堂などを1891年、乾清宮の西側に移し、書斎や外国使臣接見所として使用し た。集玉斎は煙瓦を積んで両壁面を作った清風建物で、外から見ると単層に見えるが、内部は2階になっている。八隅亭は八角楼閣で柱の上部に清風の華やかな飾りをつけた。一方、協吉堂は固有の朝鮮式建物で、オンドル部屋を置いて休息場所として使用した。これらの建物は廊下で繋がれており、それぞれの特色を持ちながら も絶妙に調和を成している。

11. 泰元殿一帯
泰元殿一帯

王位正統性確保のための高宗の努力
王子出身ではなかった高宗は、父親(興宣大院君)とともに王権承継の正統性是非に対応しなければならなかった。その一環として泰元殿を作り、歴代王の肖像であるご真影を奉ることで正統性を確保しようとした。1868年(高宗5年)に建立されたと推定 される泰元殿には太祖(1代目の王)のご真影を奉った。以降、皇后の遺体を奉る殯殿として使用したりした。文慶殿は位牌を奉る魂殿として建立した。周辺に恭黙斎、永思斎などの儀礼用建物もあり、神聖な一郭を成したが、日本の植民地時代に撤去された。ここは青瓦台が近いという理由からか、1961年5.16クーデター以後、青瓦台 の警護部隊が立ち入り、1979年、いわゆる‘景福宮謀議’をした所でもある。2006年に現在の姿に復元された。

12. 慶会楼
慶会楼
慶会楼
慶会楼
慶会楼

雄大壮厳ながらも美しい建築美学の絶頂
慶会楼は王が臣下たちと規模の大きい宴会を開いたり、外国使臣を応待していた所だ。池で舟遊びを楽しんで慶会楼に上がり、仁王山と宮廷の景観を鑑賞した。創建当時、小さな楼閣だった慶会楼は1412年(太宗12年)に池を大きく確張して楼閣 も大きな規模に再建した。文禄の役で焼失したのを1867年に再建した。慶会楼は正面7間、側面5間の重層で、広さ931㎡の大規模の木造建物だ。1階は48の高い石柱だけを立て、2階に床を敷いて宴会場として利用した。床底は3段のうち中心部分が最も高くて、その次の12間と外側の20間はそれ一指尺ぐらい低くなっている。中 央に行くほど高い位階の官僚たちが座った。慶会楼は周易の原理に基づいて建てたという昔の記録がある。これによると、中央の3間は天地人を、12間は1年十二ヶ月を、20間外側にある24個の柱は24節気を意味する。すみむね(隅棟)には韓国の建物の中で最も多い11個の雑像(屋根の上の四隅にさまざまな神像を刻み入れた装飾瓦)がある。再建当時に青銅で作った二つの竜の像を池に入れて、水と火を治めるようにしたという。1997年浚渫工事の際出土され国立古宮博物館に展示している。慶会楼は韓国の国宝第224号に指定されている。

13. 修政殿と闕内各司
修政殿と闕内各司

王室業務のための官庁
光化門前の六曹通りにあった官庁を‘闕外各司’といい、宮廷に入っている官庁は‘闕内各司’と呼んだ。勤政殿の西側に位置した闕内各司は、大きく四つの部分に分けることができる。承政院、弘文官、芸文館、教書館などは王を近くで補佐する政 治行政機構だった。内班院、尚書院、尚衣院、司甕院、司僕寺などは王室の生活と活動を補佐した実務官署だった。欽敬閣、報漏閣、観象監、簡儀台などは天文と時刻を観測する科学部署で、都総府、内兵曹、宣伝官庁、忠壮衛などは宮廷守備と王室警護を引き受けた軍事部署だった。このうち、修政殿だけが現在唯一残っている。 1867年に再建されたここは、王の出入りが頻繁で官庁建物としては珍しく正面に月台を置いた。修政殿は執務空間として使用していたが、1894年甲午改革の時、内閣本部である軍国機務処として使用されたりした。闕内各司は修政殿の前の空き地に密集していたが、1915年朝鮮物産共進会を開催時に完全に撤去された。ここは世宗 の時(1443年)、ハングル創製の産室である集賢殿があった所でもある。修政殿は宝物第1760号に指定されている。