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文化遺産の紹介

徳寿宮

  • 徳寿宮 地图
1. 大漢門一帯
大漢門一帯

大韓帝国、近代世界に向けて門を開く
元々慶運宮の正門は、南側にあった仁化門だった。ところが、東門であった大安門の前に様々な方向に向かう道路が建設され、圜丘壇が建立されると宮殿の東側が新しい都心となり、大安門が実質的な正門の役割を果たすようになった。大安門は、「大きく安らかだ」という意味を持つ。1906年、修理の時に大漢門と名を変えた。「大漢」は、「漢陽の勢力が栄える」という意味だ。「大漢門上樑文」を見ると、「黄河が澄み渡る千載一遇の時運を迎えたので、国運が末永く栄え、漢陽が億万年、続く土地に位置したので、門の名として特別にかける。」と記録されている。漢陽を首都と して新たに生まれ変わった大韓帝国が、永遠に栄えるだろうという念願を込めた言葉だ。大漢門を通り過ぎた所にある禁川橋は、1986年に発掘・整備されたものだ。この橋を渡って中和門の前に到る道が、宮殿の中心路だった。

2. 中和殿一帯
中和殿一帯
中和殿一帯
中和殿一帯

公式的行事を行った宮殿の最高殿閣
中和殿は、慶運宮の正殿として王の即位式、臣下たちの祝賀会、外国使臣の接見など重要な国家的儀式を行った場所だ。高宗が慶運宮に移った後、約5年間、即阼堂を正殿として使用したが、1902年に重層の中和殿を新たに作った。この時、中和殿の行閣128間と中和門、朝元門も共に建立された。しかし、1904年の大火災で消失後、1906年に再建され、当時の混乱した時局と貧しい財政状況によって単層に縮小された。中和殿を取り囲んで広々とした庭、朝廷を形成していた行閣は高宗の死後、大部分取り払われて東南側の角の部分だけに残っており、昔の姿は想像するしかない。 中和殿は、二重月台の上に建物を築いたが、中和殿に上がる階段の踏道には朝鮮宮殿の正殿中唯一、二匹の竜が刻まれている。他の宮殿の正殿にはみな鳳凰が刻まれているが、大韓帝国発足後に建てられた建物であるため、皇帝を象徴する竜を装飾した。中和殿は、中和門と共に宝物に指定されている。

3. 即阼堂一帯
即阼堂一帯
即阼堂一帯

徳寿宮の元空間
即阼堂一帯は、文禄・慶長の役の時に宣祖が臨時に滞在し、徳寿宮の母体となった場所だ。1897年、高宗がロシア公使館から慶運宮に移った後、1902年に中和殿を建立する前まで正殿として使用された建物だ。1904年の火災で即阼堂が焼失すると、高宗はこれを非常に惜しんだ。仁祖即位以後、垂木一つ変えないで大事に保存して来たためだ。現在、即阼堂には高宗が自ら書いた扁額がかかっている。昔御堂は、徳寿宮に唯一残っている重層建物で、丹青が施されていないため、素朴な人家のようだ。仁祖即位後、慶運宮の殿閣の大部分を元の住民に返したが、この二つの建物だけは保存して後に慶運宮の中心となった。浚堂は皇帝が政治を執っていた便殿で、即阼堂と廊下で繋がっている。現在の三つの建物は1904年に消失後、同じ年に重建されたものだ。

4. 咸寧殿と徳弘殿
咸寧殿と徳弘殿
咸寧殿と徳弘殿

皇帝の寝殿と便殿
咸寧殿は、高宗の還御とともに1897年に建立された王の寝殿だ。1904年、大火災で焼失後に重建された。高宗は、ここに身を寄せていた68歳の時に崩御した。崩御後、咸寧殿は高宗の殯殿及び魂殿として使用された。徳弘殿は、明成皇后の魂殿として使用されていた景孝殿が位置していた場所で、高宗皇帝が高位官僚と外交使節を接見する便殿として使用した。内部は天井にシャンデリアを設置するなど、西洋風に飾られた。咸寧殿の裏手には階段式庭園を構え、塼壁石で作った惟賢門と美しい装飾をした煙突を設置した。咸寧殿は、宝物に指定されている。

5. 静観軒
静观轩

伝統建築と西洋建築の調和
静観軒は、その名のとおり宮殿後苑の丘の上から「静かに宮殿を見下ろす」休息用建物だ。位置も咸寧殿の後ろにあり、伝統宮殿で後苑の東屋の機能の代わりをする建物だといえる。基壇の上にロマネスク様式の人造石柱をめぐらせて内部空間を作り、外側には東・南・西の三方向に柱を建てたベランダがある。興味深いのは、石材を基本とした洋式柱が木から作られているという点と、柱の上部に青竜と黄竜、コウモリ、花瓶などの韓国伝統文様が刻まれているという事実だ。高宗皇帝は、静観軒でコーヒーを飲みながら外交使節たちと宴会を楽しんだという。

6. 石造殿一帯
石造殿一帯

近代国家の象徴
石造殿は、高宗皇帝が寝殿兼便殿として使用するために、1900年から1910年にわたって建てた洋式石造建物だ。慶運宮に洋式建築物を建立したのは、大韓帝国の近代化のための政策の一環だった。石造殿は、西洋の新古典主義の建築様式で建てられ、建物の前と東西の両面にベランダが設置されているのが特徴だ。1階は従者が寄居する部屋と付属施設で、石段を上がって入る2階は応接室と待機室、3階は皇帝と皇后が住む寝室と多くの用途の部屋から構成されている。高宗皇帝死後、慶運宮が荒廃化する過程で石造殿は日本絵画美術館として使用された。1938年に西側の別館ができ、李王家美術館として使用された。

7. 闕内各司址と圜丘壇
闕内各司址と圜丘壇

圜丘壇、皇帝国宣布を天に告げる
現在の徳寿宮東側の垣根内側と垣根の向こうのソウル広場の一部は、宮殿内の官庁があった闕内各司の一帯だった。慶運宮から正宮を移転しながら軍事権を管掌していた元帥府と皇室の業務を担当している宮内部をはじめ、侍講院、太医院、電話局などの様々な官庁が宮内に位置するようになった。後に、太平路開設によって半分以上の殿閣が姿を消し、残りの殿閣も1933年に公園として造成される過程で撤去された。圜丘壇は、現在のソウル広場越しにあった南別宮址(現在のウェスティンジョソンソウル敷地)に建築された。南別宮は、元々太宗の二番目の王女である慶貞王女が居住した場所で、1583年(宣祖16年)に義安君が居住することによって南別宮と呼ばれた。以後、仁祖の時、中国使臣を応待した太平館が撤廃されると、中国使臣の居所として使用された後、1897年、高宗が皇位につくことを天に告げるための圜丘壇がここに建築された。以後1914年、朝鮮鉄道ホテル建設の時に破壊されたが、神位を奉っていた皇穹宇と石鼓が残り、大韓帝国の痕跡を思わせる。圜丘壇は、史跡に指定されている。

8. 璿源殿址
璿源殿址
璿源殿址

大韓帝国の栄誉と恥辱の現場
1897年大韓帝国の最高宮殿となった慶運宮は、イェウォン学校とトクス小学校、昔の京畿女子高址を含む広い領域だったが、1919年、高宗皇帝の死後、宮域が解体され今日の徳寿宮領域に縮小された。現在の石造殿後方には惇徳殿があった。西洋建築様式で建てられた惇徳殿は1907年、純宗が即位した場所だが、1922年の宮域解体と同時にアメリカ大使官邸と徳寿宮の間に道路が開設されたことにより撤去された。アメリカ大使官邸の西側に位置した重明殿一帯には、環碧亭と晩喜堂などがあったが、庚戌国恥とともに解体され始め、現在のイェウォン学校敷地の土地所有権はアメリカ・メソジスト教会宣教部、梨花学党に移った。1900年に完成した璿源殿には、肅宗をはじめ7位の御真(王の肖像画)を奉って確実に格を備え、殯殿と魂殿も設置した。璿源殿一帯は、大韓帝国を象徴する神聖な空間だったが、1919年の高宗皇帝死後、1年祭が終わるやいなや日帝は御真影を管理する人がいないという理由で、璿源殿を解体して純宗のいる昌徳宮に移し、その敷地は朝鮮銀行、殖産銀行、京城日報社などに売却した。以後、海印寺の仏教中央布教所と京城女子公立初等学校の旧称(現在のトクス小学校敷地)、京城第一公立高等女子学校(昔の京畿女子高敷地)が順に建築されながら、この一帯は完全に解体された。現在は、京畿女子高校の敷地の璿源殿復元をはじめ、徳寿宮長期復元計画が樹立されて推進中だ。

9. 重明殿一帯
重明殿一帯

皇帝国建設の希望と絶望
重明殿一帯は、慶運宮を拡張する時に最初に宮殿に編入された場所だが、慶運宮と重明殿の間に既にアメリカ公使館が位置していたので、離宮のようになった。漱玉軒と呼ばれていたが、1904年の大火災で高宗が臨時居住した後、重明殿へと変わった。皇室図書館として建てられたが、宴会場や外国使節の接待の場所として使用されたという。この一帯には、環碧亭と晩喜堂をはじめとした約10の殿閣が立ち並んでいた。1905年の乙巳条約が締結された場所も重明殿で、1907年のハーグ万国平和会議の特使派遣が成り立った場所も重明殿だ。このように、重明殿は大韓帝国の挫折と国権守護の意志が込められた歴史の現場だ。