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文化遺産の紹介

朝鮮王陵

九里 东九陵 / East Nine Royal Tombs, Guri

東九陵は、「東に位置する九基の陵」という意味で、朝鮮を建国した太祖の健元陵が最初に造成された。その後、文宗の顯陵、宣祖の穆陵、顯宗の崇陵、莊烈王后の徽陵、端懿王后の恵陵、英祖の元陵、憲宗の景陵などが造成された。陵が造成されるたびに、東五陵や東七陵などと名称が変更されてきたが、文祖の綏陵が造成された後に、現在の東九陵という名が定着した。

健元陵(太祖) / Geonwolleung(Tomb of King Taejo)

健元陵は、朝鮮を建国した太祖(1335~1408)の陵である。太祖は、1392年に王座に就いた後、首都を漢陽に移し、国の名を朝鮮と定めるなど、朝鮮王朝の基盤を造成した。健元陵は、1408年に太祖が逝去した後に現在の位置に造成された。高麗王陵の形態を継承するとともに、陵の石物と配置に一定の変化を与え、朝鮮王陵ならではの独特な形式で造成された。

顯陵(文宗と顯徳王后) / Hyeolleung (Tomb of King Munjong and Queen Hyeondeok)

顯陵(顯陵)は、李氏朝鮮の第5代国王である文宗(1414~1452)と顯徳王后(1418~1441)の陵である。文宗は、1450年に王位に就き、『高麗史』などの歴史書を編纂し、軍事制度を整備した。顯徳王后は、息子の端宗を生んで間もなく逝去し、文宗が王位に就いた後に顯徳王后として追尊(死後に称号を贈り生前の徳をたたえること)された。顯徳王后の陵は、中宗の時代に現在の位置に移された。顯陵は、王と王妃の陵を別の丘の上に造成した同原異岡陵の形式であり、丁字閣の前から見て左に文宗、右に顯徳王后の陵が造成されている。

穆陵(宣祖と懿仁王后・仁穆王后) / Mongneung (Tomb of King Seonjo, Queen Uiin and Queen Inmok)

穆陵は、李氏朝鮮の第14代国王である宣祖(1552~1608)と、その最初の王妃である懿仁王后(1555~1600)と、第二王妃である仁穆王后(1584~1632)の陵である。宣祖は、壬辰倭乱(文禄の役)と丁酉再乱(慶長の役)の後に、民生の収拾に力を注いだ。懿仁王后は1569年に王妃となったが、1600年にこの世を去り、最初に穆陵に祀られた。仁穆王后は、1602年に王妃となったが、光海君が王位に就いた後、政治勢力によって王妃の位を奪われ、西宮(現在の徳寿宮)に幽閉された。穆陵は、王と王妃の陵を別々の丘の上に造成する同原異岡陵の形式がとられている。

徽陵(仁祖妃 莊烈王后) / Hwireung (Tomb of Queen Jangnyeol)

徽陵は、李氏朝鮮の第16代国王である仁祖の第二王妃である莊烈王后(1624~1688)の陵である。莊烈王后は、1638年に仁祖の第二王妃となった。顯宗の在位期間中に、息子の孝宗とその妻である仁宣王后が逝去したとき、服喪期間をめぐって西人派と南人派が対立した「礼訟論争」の渦中に巻き込まれたこともある。徽陵は、東九陵内にある王陵のうち、丁字閣の両側に翼廊(柱)を追加して設置された。

崇陵(顯宗と明聖王后) / Sungneung (Tomb of King Hyeonjong and Queen Myeongseong)

崇陵は、李氏朝鮮の第18代国王である顯宗(1641~1674)と明聖王后(1642~1683)の陵である。顯宗は、朝鮮の歴代国王の中で唯一、外国(清の瀋陽)で生まれた王であり、王位に就いた後、軍事体制を強化し、湖南地域に対して大同法(李氏朝鮮で施行された税制)を実施した。明聖王后は、顯宗の王位継承と同時に王妃となった。崇陵の丁字閣は、朝鮮王陵の丁字閣の中で唯一現存する八作屋根(軒の四隅が上に持ち上がっている韓国式の屋根)の丁字閣である。

恵陵(景宗妃 端懿王后) / Hyereung (Tomb of Queen Danui)

恵陵は、李氏朝鮮の第20代国王である景宗の最初の王妃となった端懿王后(1686~1718)の陵である。端懿王后は、1696年に世子嬪(王の跡継ぎの正妻)となったが、景宗が王位に就く2年前にこの世を去り、景宗が王位に就いた後に端懿王后として追尊された。恵陵は、最初は世子嬪の墓として造成されたが、景宗が王位に就いた後、陵の形式に合わせて石物(石の造形物)が建て直された。

元陵(英祖と貞純王后) / Wolleung (Tomb of King Yeongjo and Queen Jeongsun)

元陵は、李氏朝鮮の第21代国王である英祖(1694~1776)と、第二王妃となった貞純王后(1745~1805)の陵である。英祖は王位に就いた後、法制度を改編して、党争を解消するために党派間の政治勢力の均衡を図った不偏不党の政策である「蕩平策」を実施した。朝鮮の歴代国王のうち、在位期間が最も長く(52年)、最も長く生きた王(83歳)である。貞純王后は、15歳で66歳の英祖の第二王妃となり、1800年に純祖が王位に就いた後に垂簾の政を行った。元陵は、朝鮮後期に変化した喪礼制度に従って、石物を写実的に彫刻した。

綏陵(追尊文祖と神貞皇后) / Sureung(Tomb of posthumous Emperor Munjo and Empress Sinjeong)

綏陵は、皇帝として追尊された文祖(1809~1830)と神貞皇后(1808~1890)の陵である。文祖は、父である純祖に代わって代理聴政を行った際、人材を平等に登用し、礼と楽を発展させたが、22歳の若さでこの世を去った。息子の憲宗が王位を継承した後に翼宗大王、大韓帝国宣布後には皇帝として追尊された。神貞皇后は、哲宗が後嗣が無いまま薨去したため、宗親(王の親戚)にあたる興宣大院君の息子である高宗を養子として迎え、王に即位させた。綏陵は合葬陵で、1つの封墳に文祖と神貞皇后を祀っているが、薨去したときの身分の差(世子と大王大妃)のため、神貞皇后がより高い位置に祀られている。

景陵(憲宗と孝顯皇后・孝定皇后) / Gyeongneung(Tomb of King(posthumous Emperor) Heonjong, Empress Hyohyeon and Empress Hyojeong)

景陵は、李氏朝鮮の第24代国王である憲宗(1824~1849)と、その第一王妃である孝顯皇后(1828~1843)と、第二王妃である孝定皇后(1831~1904)の陵である。憲宗は8歳で王位に就いたが、その当時、勢道政治(王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占的に担う状態)によって社会全体が混乱の只中に置かれていた。孝顯皇后は1837年に王妃となったが、16歳の若さでこの世を去った。孝定皇后は1844年に王妃となり、1897年の大韓帝国宣布後に太后となった。景陵は、三連陵の形式で構成されており、陵の左に憲宗、中央に孝顯皇后、右に孝定皇后の陵が造成されている。

南楊州 順康園(追尊元宗の生母 仁嬪) / Sungangwon Royal Tomb, Namyangju (Tomb of Royal Consort Inbin, mother of posthumous King Wonjong)

順康園は、李氏朝鮮の第14代国王である宣祖の後宮であると同時に、追尊元宗の生母である仁嬪金氏(1555~1613)の墓である。仁嬪は1573年に宣祖の後宮となり、四男五女を生んだ。1613年にこの世を去り、現在の場所に墓が造成され、1623年に孫の仁祖が王位に就いた後、墓所の入口に神道碑を建てた。その後、英祖の治世である1755年に、王の生母という地位に合わせて「墓」が「園」に昇格した。順康園は王陵と同様の形態であるが、封墳の屛風石と欄干石、武石人を省略した。順康園の隣には、四男である義昌君の墓がある。

九里 明嬪墓 / Tomb of Queen Consort Myeongbin, Guri

明嬪墓は、李氏朝鮮の第3代国王である太宗の後宮となった明嬪金氏(?~1479)の墓である。明嬪は1411年に明嬪に冊封され、成宗の治世である1479年に逝去した。明嬪墓は一般的な後宮墓の形式で、封墳、文石人、床石、墓標石のみ建てられている。

九里 明嬪墓
九里 明嬪墓