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文化遺産の紹介

朝鮮王陵

高陽 西五陵 / West Five Royal Tombs, Goyang

西五陵は、「西側にある五基の陵」という意味で、世祖の長男である懿敬世子(追尊 徳宗)の墓(敬陵)が最初に造成された。その後、睿宗の昌陵、順懷世子の順昌園、仁敬王后の翼陵、肅宗の明陵、貞聖王后の弘陵が造成された。そして、1970年代に暎嬪李氏の綏慶園と玉山府大嬪張氏の大嬪墓が移されて、現在の西五陵となった。

高陽 西五陵 West Five Royal Tombs, Goyang
高陽 西五陵 West Five Royal Tombs, Goyang
高陽 西五陵 West Five Royal Tombs, Goyang
昌陵(睿宗と安順王后) / Changneung (Tomb of King Yejong and Queen Ansun)

昌陵は、李氏朝鮮の第8代国王である睿宗(1450~1469)と、その第二王妃、安順王后(?~1498)の陵である。睿宗は、最初は海陽大君に叙せられ、1457年に王世子に冊封された後、1468年に世祖から王位を委譲された。王位に就いた後、「南怡の獄」事件を収拾し、『経国大典』を完成したが、頒布できないまま薨去した。安順王后は、最初は世子の後宮となったが、睿宗が王位に就いた後に王妃となった。昌陵は、西五陵の領域内に王陵の形式で最初に造成された陵である。

昌陵(睿宗と安順王后) / Changneung
昌陵(睿宗と安順王后) / Changneung
昌陵(睿宗と安順王后) / Changneung
敬陵(追尊徳宗と昭恵王后) / Gyeongneung (Tomb of Posthumous King Deokjong and Queen Sohye)

敬陵は、王として追尊された徳宗(1438~1457)と昭恵王后(1437~1504)の陵である。徳宗は、世祖の長男で、王世子の身分でこの世を去った。世祖は、夭逝した息子に懿敬世子という諡号を贈り、1469年に次男の成宗が王位に就くと、徳宗として追尊された。昭恵王后は、成宗が王位に就いた後に仁粹大妃となった。非常に学識が深く聡明で、婦女子としての礼儀作法を教える『內訓』を本に編纂した。敬陵は、同原異岡陵の形態であるが、逝去したときの身分の差(王世子と大王大妃)により、昭恵王后の陵が徳宗の陵よりも華やかな作りになっている。

明陵(肅宗と仁顯王后·仁元王后) / Myeongneung (Tomb of King Sukjong, Queen Inhyeon, and Queen Inwon)

明陵は、李氏朝鮮の第19代国王である肅宗(1661~1720)と第二王妃である仁顯王后(1667~1701)、第三王妃である仁元王后(1687~1757)の陵である。肅宗は、14歳で王位に就き、三度にわたる換局による朋党政治の中で王権を強化し、全国的な大同法の実施と貨幣の製造(常平通宝)、白頭山定界碑の建設などの業績を残した。仁顯王后は、1681年に王妃となり、換局によって廃位されたが、後に復位した。1701年に逝去し、明陵に最初に祀られた。仁元王后は、1702年に王妃となり、景宗の在位期間に起こった朋党政治の対立から英祖を最後まで保護した。明陵は、同原異岡陵として造成された肅宗と仁顯王后の双陵と、仁元王后の単陵形式で造成されている。

明陵(肅宗と仁顯王后·仁元王后) / Myeongneung
明陵(肅宗と仁顯王后·仁元王后) / Myeongneung
明陵(肅宗と仁顯王后·仁元王后) / Myeongneung
翼陵(肅宗妃 仁敬王后) / Ingneung (Tomb of Queen Ingyeong, consort of King Sukjong)

翼陵は、肅宗の第一王妃である仁敬王后(1661~1680)の陵である。仁敬王后は、1670年に王世子嬪となり、肅宗の即位により王妃となった。しかし、天然痘で20歳の若さでこの世を去った。翼陵の丁字閣は、両側に翼廊(柱)が追加で設置されている。

翼陵(肅宗妃 仁敬王后) / Ingneung
翼陵(肅宗妃 仁敬王后) / Ingneung
翼陵(肅宗妃 仁敬王后) / Ingneung
弘陵(英祖妃 貞聖王后) / Hongneung (Tomb of Queen Jeongseong, consort of King Yeongjo)

弘陵は、李氏朝鮮の第21代国王である英祖の第一王妃、貞聖王后(1692~1757)の陵である。貞聖王后は、最初は延礽君夫人となったが、英祖の即位により王妃となった。朝鮮歴代王妃の中で、王妃としての在任期間が約33年と最長であるが、英祖との間には子がなかった。弘陵は、英祖の陵が今も空いたままの空間として残されている。

弘陵(英祖妃 貞聖王后) / Hongneung
弘陵(英祖妃 貞聖王后) / Hongneung
順昌園(順懷世子と恭懷嬪) / Sunchangwon (Tomb of Crown Prince Sunhoe and Crown Princess Gonghoebin)

順昌園(順懷世子と恭懷嬪) / Sunchangwon順昌園は、李氏朝鮮の第13代国王である明宗の長男である順懷世子と恭懷嬪の墓である。順懷世子は、7歳で王世子となったが、王位に就かぬまま、13歳でこの世を去った。恭懷嬪は、1561年に王世子嬪となったが、夫である順懷世子に先立たれ、王妃となることはできなかった。1592年に逝去したが、葬礼期間中に文禄・慶長の役(壬辰倭乱)が起こり、正式な葬礼を挙行することができず、遺体も収拾されなかった。その後、神主を作って順懷世子と合葬された。順昌園は、最初は順懷墓として造成されたが、1890年に順昌園に昇格した。



綏慶園(追尊莊祖の生母 暎嬪) / Sugyeongwon (Tomb of Royal Consort Yeongbin, mother of posthumous Emperor Jangjo)

綏慶園(追尊莊祖の生母 暎嬪) / Sugyeongwon綏慶園は、李氏朝鮮の第21代国王である英祖の後宮で、追尊莊祖の生母である暎嬪李氏(1696~1764)の墓である。暎嬪は、1701年に宮女として入宮した後、1726年に英祖の後宮となった。英祖の次男である思悼世子を生み、1764年に69歳でこの世を去った。綏慶園は、1899年に息子である思悼世子が皇帝として追尊されたことによって綏慶園に昇格され、1970年に新村の延世大学から現在の場所に移された。




大嬪墓(景宗の生母玉山府大嬪) / Daebinmyo (Tomb of Royal Consort Oksanbu-daebin, mother of King Gyeongjong)

大嬪墓(景宗の生母玉山府大嬪) / Daebinmyo大嬪墓は、李氏朝鮮の第19代国王である肅宗の後宮で、20代景宗の生母の玉山府大嬪張氏(1659~1701)の墓である。玉山府大嬪は肅宗の寵愛を受けて1686年に後宮となり、肅宗の長男である景宗を生んだ後に禧嬪に冊立された。その後、政局転換事件が起きて王妃となったが、1694年にまた禧嬪に降等された。1701年に仁顯王后が逝去した後、仁顯王后に対する誣告罪(虚偽告訴罪)により自害して果てた。息子の景宗が王位に就いた後、玉山府大嬪として追尊された。



光明 永懷園(昭顯世子嬪 愍懷嬪) / Yeonghoewon Royal Tomb, Gwangmyeong

永懷園は、李氏朝鮮の第16代国王である仁祖の長男である昭顯世子の妻、愍懷嬪姜氏(1611~1646)の墓である。愍懷嬪は1627年に王世子嬪となり、1636年に丙子の乱が起きると、昭顯世子と共に清に趣いた。清では、朝鮮を代表する女性経営者としての役目を果たし、1645年に帰国した。しかし、昭顯世子が逝去した後、王室を呪ったという濡れ衣を着せられ、1646年に廃位、賜死(薬殺刑)に処された。1719年に潔白が証明され、愍懷嬪として復位した。永懷園は、愍懷嬪が復位された後、愍懷墓として造成されたが、1890年に永懷園に昇格した。

坡州 昭寧園(英祖の生母淑嬪) / Soryeongwon Royal Tomb, Paju

昭寧園は、李氏朝鮮の第19代国王である肅宗の後宮で、21代英祖の生母である淑嬪崔氏(1670~1718)の墓である。淑嬪は1676年に宮女になり、肅宗の寵愛を受けて後宮となった。1694年に英祖を生み、1699年に淑嬪となった。英祖が王位に就いた後、1753年に王の生母という地位に合わせて墓が園に格上げされた。昭寧園は、王陵と同様の形態であるが、封墳の屛風石と欄干石、武石人が省略されている。

坡州 綏吉園(追尊真宗の生母靖嬪) / Sugirwon Royal Tomb, Paju

綏吉園は、李氏朝鮮の第21代国王である英祖の後宮で、追尊真宗の生母である靖嬪李氏(1694~1721)の墓である。靖嬪は、1719年に英祖の長男である孝章世子を生んだ。景宗が王位に就いた後、英祖が王世弟に冊封されたことで後宮となったが、間もなく逝去した。英祖が王位に就いた後、息子が王世子に冊封されたことで靖嬪に昇格し、正祖が王位に就いた後、孝章世子が真宗として追尊され、王の生母という地位に合わせて墓が園に格上げされた。